話せない人

場面緘黙症と情緒不安定な日々

合理的配慮とスティグマの問題

「自分のことを情緒障害も含めて知ってもらいたい」
「でも、変なやつだと思われたくないし、過度に気を使われるのは嫌だ」

情緒障害のカミングアウトには、このようなジレンマがあります。そのため、身体障害などと比べても開示が難しいです。

まず、配慮を受けるためには、自分の障害を知ってもらう必要があります。しかし、障害名を開示することでスティグマ(負の烙印)を受けるのではないかという不安があるのです。

『合理的配慮 -- 対話を開く,対話が拓く』という本で、この配慮とスティグマの問題について少し触れられていました。そこで「合理的配慮」とは何か、どのようなスティグマの問題があるか、ということをまとめてみたいと思います。

合理的配慮 -- 対話を開く,対話が拓く

合理的配慮 -- 対話を開く,対話が拓く

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5月病と緘黙啓発

自分自身が5月病になってしまい、緘黙啓発どころではなかった…。気持ちも落ち着いてきたので少し緘黙の話を書きます。

5月は場面緘黙症啓発月間です

5月は場面緘黙症啓発月間です | 場面緘黙症Journalブログ

今更ですが、5月は場面緘黙症啓発月間です。
さて、場面緘黙症とは何か? 端的に言えば以下の様な状態を指します。

家などではごく普通に話すことができるのに、例えば幼稚園や保育園、学校のような「特定の状況」では、一ヶ月以上声を出して話すことができないことが続く状態

自分の個別の事例を挙げてしまっては、情報に偏りが出てしまいますので、以下のようなサイトが参考にされると良いかと思います。

かんもくネット〜場面緘黙とは〜

わざと話さないわけじゃない。専門家に聞く、場面緘黙(かんもく)について知っておきたいこと | WEB連動企画“チエノバ” | ハートネットTVブログ:NHK

気持ちだけで支援するのは難しい

自分も元緘黙症であり、やはり精神的な不安定さがあります。
「啓発しよう!」という側が、倒れこんでいたのではどうしようもないですね。。

自分は人一倍正義感に溢れるわけでも、善人でもなく、むしろ薄情な人間だと思っています。このブログも基本的には自分が書きたいことを書きますし。

ポジティブなパワーで動き続けるのが苦手で、やる気がなくても勝手に継続されるようにしていきたいです。もう、自分も働いていて、そういう状況でも無理なく発信していく方法を考えていきたい。。

マイノリティとどのように接するか

自分はかつて場面緘黙症という情緒障害を抱えていて、ある種のマイノリティとして扱われてきました。ある場面、場所、人の前では一言も話すことができませんでした。他人からすれば、なぜそうなるのかさっぱり分からないでしょうし、自分もいまだにそれを適切に表現する言葉を知りません。道端に転がる石ころのように、他人から理解されないし、自分から自分のことを話すこともできませんでした。

場面緘黙症は自分から発信することができないために、このような不理解の構造の中に囚われ、そこから抜け出せなくなっています。そのため、当事者が自分の力で解決するのがとても難しいのです。そんな自分たちが、他人から支援を受けるためには、どうにかして場面緘黙症」という「言葉」を知ってもらうしかないのでした。その言葉を頼りにWikipediaでも、本でも、ツイッターでも、なんでもいいから調べて、知ってもらいたい。

場面緘黙症の発症率は0.2~0.5%程と言われています。けして少なくありません。にもかかわらず、自分が緘黙だったときに、まわりにこの言葉を知っている大人はいませんでした。LGBTの言葉を使えば「沈黙は死」。声をあげなければ、存在しないのと同じになってしまう。

ネット上では場面緘黙症を啓発しようという動きも出ていますが、この記事を含め、なにか小さな空隙の中で反響しているだけのような気さえします。中では大きな音に聞こえますが、外にでてみると全然響いていないような虚しさを感じてしまいます。

すべての障害を理解することはできない

場面緘黙症に限らず、マイノリティと呼ばれる人たちは、他人と異なるが故に「自分を理解して欲しい」という気持ちが強いと思います。もちろん全員がそうであるわけはないのですが、すべてのマイノリティがそのように、「正しい理解」と「適切な配慮」を求めるとどうなるでしょうか。僕は、それはちょっと重いんじゃないかなと思います。

4月1日から「障害者差別解消法」が施行されました。障害者に対する合理的配慮の不提供は、差別になるようです。働きやすくなるのは良いのですが、障害者が煙たがられるのではないかと少し心配でもあります。

そもそも「正しい理解」とは何でしょうか? 僕は自分が学生時代に体験した状態に対して、「場面緘黙症」というラベルを貼って理解しているつもりになっています。けれども、他の緘黙症の人と会ったこともありませんし、すべてが同じでないということも、ツイッターを見ながらぼんやりと分かってきました。

また、人は物ではないので、常に変化しています。極端に言ってしまえば、一秒前のあなたを完全に理解したとしても、その一秒後にはあなたは変わってしまっているので、その理解は古いだと思います。屁理屈かもしれませんが、完全に理解するのは不可能なのだと思います。

「理解できない」ということを理解する

二年前にFacebookで性別の選択肢が大きく増えました。

wired.jp

これはマイノリティの中で顕著なのですが、自分たちの感覚や状態を表す言葉が常に不足しているように思います。この「言葉の不足」が新しい言葉を生み出す原動力になっていて、一般には流通していない言葉がたくさん生まれています。

一方で、言葉だけが先にあり、身体感覚を伴わないということもよくあります。言葉に追いつくために、実体の方がそれに近づこうとしたりします。このように言語世界と実体の世界とは、互いに引き付け合う引力がはたらいているような気がします。

話がそれました、すみません。しかし、なぜこんな話をしているかというと、僕はこの引力が、時として状態を固定化してしまう不思議な魔力があるように感じるからです。

緘黙症だった頃の自分は、教室では一切話せず、置物同然でした。しかし、周りにクラスメイトがいない状態で、他のクラスの知らない子に話しかけられると、普通に話せていました。

緘黙症は極度の緊張や不安により話せなくなるということが言われていますが、その頃の自分は不安や緊張ではなく、状態を固定化する魔力によって話せなくなっていたのだと思います。「こうあるべき」という目に見えない期待のようなものに、自分をぴったりと合わせなければならない気がしていました。

これは「緘黙症の理解」にも当てはまると思います。緘黙であると理解されると、緘黙状態から抜け出せなくなるのではないか、という恐怖感があるのです。他人に注目されたくないという気持ちもありましたし、精神病患者として扱われ、なにかおおごとになってしまうという思いもあり「他人に知られたくない」という強い抵抗感がありました。これが緘黙症の治療をより難しくし、認知度が上がらない原因とも考えられます。

「さっきは知ってほしいといっていたのに矛盾するじゃないか」と言われれば、ぐうの音も出ません。実際、矛盾しているのです。我ながらめんどくさい病気にかかっていると思います。『行人』の一郎兄さん並に、治療困難だと思います。

僕は、放っておくと勝手に強固になり身体の自由を奪うこれを「檻」とか「殻」という風に呼んでいるのですが、緘黙症でなくなった今も、この檻が自分の周りに建設されていくような感覚があります。自分は職場で障害名を公表していないのですが、それは名前を出してしまうと、檻がより強固になってしまう気がするからです。

「君は元緘黙症なんだね。これからは大きな声で話せ!なんて言わないよ」「君は障害があるから、この仕事はしなくていいよ」なんて言われたくないんです。自分は人にしっかり聞こえる声で話したいし、やりたい仕事もたくさんある。変わりたいし、成長したい。他人が勝手に思っている「正しい理解」に縛られたくないんです。

求められる配慮の形は、人により様々です。障害名で一括りにした配慮というのはありえないと思います。障害名に囚われずに、その人と話しながら決めていくのが「合理的配慮」なのだと思います。これは何十冊も本を読む必要もなく、お金をたくさん費やす必要もありません。理解しようとすることは大事ですが、同時に、完全には理解できないのだということも知っていて欲しい。そういう態度で接してくれた嬉しいです。

汝ら己を愛するが如く

ツイッター緘黙クラスタのつぶやきを見ていると「死にたい」とか「消えたい」というような自己否定的な言葉が多い。また自分は、人を愛したり、なにかしてあげようとしても、ぎこちなくなってしまってうまくいかない。この自己肯定感の少なさと、人を愛することのできなさには、なにか関係があるんじゃないかなあと、最近考えている。

「愛するということ」を考えるとき「汝ら己を愛するが如く汝の隣人を愛せよ」という言葉を思い出す。これは聖書の引用らしく、太宰治が39歳のときに書いた『わが半生を語る』の中で読んだ言葉だった。その年に太宰は入水自殺してしまうのだけど、死ぬ前にちらっと次のようなことを書いている。

やはり己も愛さなければいけない。己を嫌って、あるいは己を虐たげて人を愛するのでは、自殺よりほかはないのが当然だということを、かすかに気がついてきました

これを読んだのが高校生のときで、その頃は今よりずっと憂鬱で「自分は屑だ、死んだほうがいい」と思いながら過ごしていた。やはり自分も、汝ら己を愛するがごとく~の考えを理想としつつも「でも、どうやって?」と悩んでいた。愛する方法がわからなかった。

また最近、地下室の手記安岡治子の解説を読んで、ドストエフスキーも同じようなことを考えていたことがわかった。

キリストの教えに従って己を愛するように人を愛することは不可能だ。この地上では個の法則に縛られ、《我》に阻まれるからだ。キリストのみがそれをなし得たのだ

自分と同じように他人を愛するなんて無理だよね。やっぱり自分が一番大事だし。この「自分が一番大事」と思いながらも自分を愛せない、自己肯定感が少ないという一見矛盾するような状態がいつまでも続いていた。これに対して心理学者のエーリッヒ・フロムは『愛するということ』で、こんな風に書いていた。

利己主義と自己愛とは、同じどころか、まったく正反対である。利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。

つまり、自分が今まで考えていた「好かれたい」とか「愛されたい」という気持ちは、利己主義であって、自己愛ではないということなのかもしれない。また、聖書の問題についても次のように言っている。

「汝のごとく汝の隣人を愛せ」という考え方の裏にあるのは、自分自身の個性を尊重し、自分自身を愛し、理解することは、他人を尊重し、愛し、理解することとは切り離せない(中略)もし他人しか愛せないとしたら、その人はまったく愛することができないのである。

これを読んで、自分が他人を愛せないのは、自分を愛することができなかったからなのだと妙に納得してしまった。

また、本を読んでいると、コミュニケーション能力があって明るくてどんなことにも前向きな人間が絶対的正義ではないということがわかってきた。
思想家の吉本隆明は『ひきこもれ』の中で「孤独癖がある」「世間並みの常識がない」「人並みに挨拶ができない」と若い頃にさんざん言われ悩んだということを書いていた。それでも、ひとりでこもって過ごす時間は価値を生むから必要と言っている。
自分の性格を理解したうえで、その個性を尊重することが大事なのだと思う。

自分自身を理解すると、自分の暗い性格や緘黙という情緒障害も生まれ持ったものだししょうがないかと思えるようになった。あまり善悪で考える必要はないかなと。
そうして自己肯定感が持てると、不思議と「他人も愛せるかもしれない」という予感がした。そんな気がしただけと言ってしまえばそれまでだけど、自分で自分を愛せると、人に好かれたり、愛されたりすることで肯定感を得る必要がなくなって、結果的に依存しなくてすむのかもしれない。

予感がしただけで、今までにない幸せな気持ちになれたので、本当にできたらすごいだろうなあ。自立したい。

内向型人間の生き方

あなたは学校で「殻に閉じこもっていないで、もっと元気に」とハッパをかけられたかもしれない。このいやな表現は、自然界には殻をかぶったままどこへでも移動する動物もいるのだから、人間だって同じなのだという事実を認識できていない。

スーザン・ケインさんの『内向型人間のすごい力』という本のはじめにこんな言葉があって「確かに!」と思った。これは単なる強がりだろうか? でも、そんな風に思うのは、外向的で明るい人が正しく、そうでない自分は間違っていると思い込んでいるからかも。

本を通して語られる事は「自分は何者なのか?」「どんな風に生きればよいか?」という疑問に答えてくれるものだった。また、内向型の特質は緘黙症に共通する箇所が多く、参考になるので少し紹介したいと思う。

扁桃体の興奮しやすい乳児は内向型になりやすい

生まれつき扁桃体が興奮しやすい乳児は外界からの刺激に対して大きく反応し、成長すると、初対面の人間に対して用心深く接するようになる。

扁桃体は脳内の感情スイッチの役割を担う箇所。ここが大きく反応する乳児は内向的な性格に成長しやすい。反対に、反応が鈍い乳児はより大きな刺激を求めて外向的な性格になりやすい。

場面緘黙症扁桃体の過剰な反応が原因と考えられている。もしこれが正しいのであれば、緘黙症の多くは生まれながらにして内向型の特質を持っていることになる。幼少期に「人と話せない」という状況を回避することができれば、自分はもっと明るい性格だったかも? という妄想をよくするけれど、程度の差はあれ、やはり内向的性格になる確率は高そうだ。

また、緘黙症が併発しやすい社会不安障害も、この扁桃体の異常反応と関係があるかもしれない。これはもう少し調べてみたい。

繊細な感受性

自分の性格や情緒障害が、ほとんどこいつのしわざなのかと思えば憎らしくもなるけれど、内向的性格は良い面もある。例えば独創性。

「飲み会や遊びの誘いは嬉しいけど、できれば家で本を読んでいたい」というような内向的な性質は、「暗い」とか「付き合いが悪い」と思われがちだが、一人の時間はとても大切で、そんな時間から創造的なものが生まれる。

ものごとにじっくり取り組む性質は、低刺激なものを好む内向型によく見られるらしい。

また、刺激に対して大きく反応する内向型は、繊細な感受性をもっていて、それは長所でもあるが、同時に環境に左右されやすいという側面もある。

ストレスの多い家庭環境におかれた場合、短いSERTを持つ思春期の少女たちは、長い型のSERTを持つ少女たちよりも鬱状態になる確立が20%高かったが、安定した家庭環境にある場合には、鬱状態になる確立は25%低かった。

緘黙児にとって学生時代は陰鬱なものになりやすい。自分の場合は、環境の変化で成績が大きく変動したり、人の入れ替わりで話せるようになったりした。環境に左右されやすい不安定な性格になった原因も内向的性質のためかもしれない。

パーティが苦手

大勢人がいる場面では、数多くの情報を即座に処理しなければならず、強い刺激に弱い内向型は必然的に静かになってしまう。緘黙による経験不足だけが原因ではなく、脳の機能からして不得意なことだった。

また、大勢でする表面的な話よりも、1対1でじっくり話すことを好むそうで、これも自分に当てはまる。飲み会のような不特定多数の人と集まる場面では、緊張して楽しめない。

けれどもそういった場面では、大勢と話そうとするのではなく、隣の人とじっくり話そうと意識すれば、飲み会も楽しいものだと思えるかも。

どう生きるか

ざっと上のようなことが書かれていて、とてもおもしろかった。
この本を通して分かったことは、内向的性格の原因や長所を理解すれば、自分自身をそんなに否定的に考える必要はないということ。また、常に外向的であろうとすることは、精神的に疲れてしまうが、自分が本当にやりたいことのためには外向的に振る舞うことも必要。そんなときは、「回復のための場所」をたくさん用意しておくと良いそう。

自分の場合、休憩時間はトイレや車の中に篭って過ごすことが多く、無意識的に一人になれる場所を求めていたのかもしれない。

最後に本を読むきっかけとなった、スーザン・ケインさんのTEDの動画を載せておきます。



内向型人間のすごい力 静かな人が世界を変える (講談社+α文庫)

内向型人間のすごい力 静かな人が世界を変える (講談社+α文庫)

Selective Mutisum と 場面緘黙症

Twitterで話題になっている海外の緘黙児の動画。

5歳の女の子マデリン(Madeleine Raines)は、家庭にいる時は快活でおしゃべりな女の子(動画 1:00~2:00)。 ところが、学校などでは話すことが出来ない(動画 2:00~)。
また、9歳の男の子ロバート(Robert Gibson)も同様に学校では話すことが出来ない。

"Documentary about Selective Mutism in 2006 on Channel 4."
とあるので、10年前の動画なのでしょうか。緘黙児の学校と家との対比がわかる映像は貴重ですね。

トリイ・ヘイデンの『檻の中の子』が出版されたのも10年以上前。
日本と英語圏での認知度と情報量の差を感じてしまいます。

歩きながらの妄想

自転車を盗まれたので、駅前の交番まで盗難届けを出してきた。
近場の移動は、ほぼ自転車。自分にとっては足を盗まれたようなもの。なんてことしてくれたんだ馬鹿野郎。

婦警のお姉さんに盗難場所や自転車の特徴を聞かれて、あれ、どうだったっけ?と思い出せない。タイヤのインチサイズ、ギアの変速数、最後に乗ったのはいつだった?

仕事をしていてもそうだけど、自分は「覚えよう」と意識しないと本当に覚えられない。毎日見てるはずのものでも説明ができない。記憶力が人より低いのかもしれない。これは緘黙関係ないのかな。

歩いていると、幼稚園にいた頃を思い出す。
他の子と遊んだ記憶がほとんどない。自由時間はほとんど、歩きながらの妄想に費やされていた。そのとき見ていたアニメのキャラクターがごちゃまぜになった妄想。旅をしたり戦ったり、武器や技の設定も事細かにあり、主人公は7段階変身する。

このときのクセが染み付いてしまって、自分は何か楽しいことを考えつくと、無性に歩きたくなる。

そうして、一人で楽しんでいる妄想の世界。話のできない動物も、楽しい妄想をしているのだろうか。でも、人間に生まれたからには、その妄想を人に話してみたい。