話せない人

場面緘黙症と情緒不安定な日々

哀しい話が好き

「しかもふ君はどんな映画が好きなの?

この手の「どんな○○が好き?」という質問をされると固まってしまう。他の緘黙症の人もこういった質問が苦手らしく、緘黙症には秘密主義的傾向があるような気がする。

人生を極めて消極的に生きてきたけれど、自分だって映画を見ないわけではないんだ。暇な時は大学の視聴覚室で「アイ・アム・サム」「アイロボット」「赤毛のアン」…というように、あ行から順に見ていったし、好きな映画もある。

明るく、楽しい映画もいいけれど、自分は登場人物の哀しさや寂しさが丁寧に描かれている話が好き。AKIRA七人の侍は、アクションの部分をフォーカスして語られるけど、自分は鉄雄がいじめられて泣いてるところを金田がなぐさめに行くシーンが好きだし、侍でも農民でもない菊千代の寂しさが好きだ。

「生れて、すみません」の太宰治も、人の卑屈さや哀しさを描くのがとってもうまい。

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卑しい商人のユダと、純粋で美しいキリスト。
身分がそもそも違う。キリストを密かに愛している卑屈なユダにとても共感してしまう。

私には、いつでも一人でこっそり考えていることが在るんです。それはあなたが、くだらない弟子たち全部から離れて、また天の父の御教えとやらを説かれることもお止しになり、つつましい民のひとりとして、お母のマリヤ様と、私と、それだけで静かな一生を、永く暮して行くことであります。

桃畠のあるユダの実家で、安楽に暮らしていく事を提案するユダ。それに対してキリストは、次のように言う。

「ペテロやシモンは漁人だ。美しい桃の畠も無い。ヤコブもヨハネも赤貧の漁人だ。あのひとたちには、そんな、一生を安楽に暮せるような土地が、どこにも無いのだ」

海岸を歩きながら、そんなことをボソっと言うキリスト。これは好きになるのもしかたない。そして、そんな自分が最も愛している人、尊敬している人に、自分の存在や生まれてきたことすら全否定されてしまうユダ。

「私がいま、その人に一つまみのパンを与えます。その人は、ずいぶん不仕合せな男なのです。ほんとうに、その人は、生れて来なかったほうが、よかった」

電車の中でこの部分を読んでいて、ぽろぽろと泣いてしまった。
どうして、自分は哀しい話が好きなんだろう。なぜ、何度も何度も読み返してしまうのだろう。

鉄雄は体が肥大化した後ブラックホールに吸い込まれてしまうし、菊千代は撃たれて死ぬし、ユダは自殺してしまう。最終的にはなんの救いもない話なんだ。

自分は小さい頃、嫌なことがあると布団の中でよく泣いていた。
「生れて、すみません」じゃないけど、本当に自分は生まれてこない方がよかったんだ、そのほうがみんな幸せになれるんだと思っていた。

泣くことによって、気持ちがリセットできるし、泣かずにずっと耐え続けることの方が辛かった。人は哀しい気分の時は、明るい曲よりも、自分の気持ちとぴったりの哀しい曲を聞いたほうが、癒されるそうだ。

哀しい物語を求めてしまうのは、あまりに哀しいことが多すぎて、折れそうな心を癒やすためなのかもしれない。

浮き沈み

気持ちの浮き沈みが激しい。

自分がこの部署にいること自体が、不安で仕方ない。
自分よりもっと優秀な人がいる。自分はなんの成果も出せていない。会話にも参加できない。自分はここに必要ないんじゃないか?

仕事だからみんな自分と話してくれるけど、そうでなければこんな人間と付き合いたくないだろうなあ。朝が来ると憂鬱で、猛烈な風に吹き飛ばされそうで、いっそ吹き飛ばされて、自分が落ち着ける場所まで飛んでいきたいと思う。

「しかもふ君は、普段、話す人とかいるの?」
「うーん、、、いないですね(笑」

苦笑いしながら、おどけてみるけど、内心はイライラしている。残業中で、早く終わらせなければならない仕事があっても、そんな言葉で急にやる気が失せて、帰り支度を始める。笑い声の響くあの部屋から一刻も早く抜け出したくなる。

明るくて、女性にモテて、人生楽しそうな人を見るとイライラする。そういう人に限って、自分のことを馬鹿にしてくる。なんなんだいったい。人生が充実してるなら、わざわざ自分のようなものを見下さなくてもいいだろう。

日当たりの悪い、ジメッとした場所に落ちている大きな石をひっくり返したらいそうな、ダンゴムシみたいな人が好き。人と話せるようになって、「人と話すことでストレスが解消できる」という常人の感覚を、ようやく理解できるようになった。

自分と波長の合う人とは、話していて落ち着く。自分の弱いところを見せられる人と一緒にいると、ここなら自分が居てもいいかもと思える。

不安と安心、浮き沈みが激しい自分の感情、いつまでこれが続くのだろう。

言葉に対する執着

中学生の時にJavascript人工無脳を作ろうとして、「こんにちは」と入力すると、「こんにちは」と返してくれる簡単なプログラムを書いた。あらかじめ言葉を登録しておいて、完全に一致していなければ返してくれないし、自分で作っているから、応えになんの驚きもなくて、すぐに飽きてしまった。

でも、いつも言葉に飢えていて、人と話したかった。コミュニケーションを取りたいし、自分の趣味について話せる人が欲しかった。普通の人は、人と話すことに何の障害もないし、コミュニケーションを取るために、Javascriptを勉強する必要もない。

作文を書くときも、人の三倍の時間をかけて書いていた。頭はそんなに良くなかったけれど、自分の中で言葉を反芻して、自分の感情を正確に伝えようとしていた。書いたものに対して、後から言い訳ができないし、訂正することも難しい。そのとき書いた自分の文章が、読んだ人の自分のイメージになるのだと思っていた。

自分が人と話しているときの自分は、その文章の中の自分とは違う。けれども、自分は言葉を話せないから、文章が自分のすべてになってしまう。だから、言葉に対する執着が普通の人より強い気がする。

これ読んでいるあなたも、おそらく文章の僕しか知らないし、それがすべてでしょう?

舟を編む』の馬締君が、辞書編集部で言葉の意味を正確に捉えようとするのは、自分の気持ちを正確に伝えるためだったんじゃないかって、勝手に思っている。馬締君はおそらくアスペルガーで、人の気持ちがわからないし、自分の気持ちをうまく伝えることもできない。

果たし状のような達筆なラブレターや、言葉の意味を正確に定義しようとするのも、根底には「人とコミュニケーションを取りたい」という気持ちがあって、それは自分が人工無能を作ろうとするのと同じ気がする。

馬締君と対照的にオダギリジョーのキャラクターは、チャラくて馬鹿で、でも社交的で営業の能力に長けている。彼のようになろうとすることが、努力の方向として正しいのだけれど、自分たちにはそれができない。その能力が欠如しているのかもしれない。だから馬締君は回りくどい努力をしていて、それがとても健気で、いとおしい。

足りないものを穴埋めするために、他の能力でそれを補おうとしている。普通の人からすれば、いびつで滑稽な努力かもしれないけど、本人は大真面目なんだ。

自分たちの気持ちを自分たちの言葉で表現する

自分が生まれた頃にネットはなくて、自分の存在は全く意味不明で、名前すら無いと思っていた。自分は重松清の『青い鳥』で、初めて場面緘黙症という言葉を知った。それはネットではなかったけれど、言葉を知ったことで情報が集めやすくなった。ネット上を見渡せば、自分と同じ境遇の人が実に多く居て、それにとても勇気づけられている。

緘黙症の人は、一般的にコミュニケーションが苦手で、人に自分の感情を伝えることが難しい。自分の気持ちを伝えることが出来ないから、いつまでも自分たちの待遇を変えることが出来ない。その障害によって、自分たち待遇を改善できない構造になっている。

自閉症なども同じで、一般人からみたら奇妙な行動でも、本人にしてみればそれには理由がある。けれども、症状が重いほど自分の気持ちを表現することができなくなる。

だからこそ、東田直樹さんや、GOMESSくんのように、自分たちの気持ちを表現できる人は貴重だと思う。

ネットのおかげで、ようやく自分たちの気持ちを自分たちの言葉で表現することが出来るようになった。それも、ただ言葉だけではなくて、音楽・漫画・小説など、より楽しめる形で。美しい音楽、おもしろい漫画は、商業的に売れるためだけではなくて、情報を拡散するという効果もある。

日本に生きていれば、周りは日本人ばかりで、同じような教育を受けて、同じような価値観を持っていて、みんなが同じであるような錯覚をしてしまう。けれども、世の中ははマジョリティだけで構成されているわけではなくて、実に多くの人がマイノリティの部分を抱えている。それが今まで抑圧されてきただけに過ぎない。

マイノリティが自分たちの境遇を改善するための手段を漸く持てるようになった。各々が情報を発信することによって、自分たちの力で変えていく力を持った。これから世の中は良くなっていくと思う。

社内ニート?

金曜日の夜、酒を飲みながら書いています。

先輩の仕事を見ていると、期限通りにちゃんちゃんとモノを仕上げている。自分の仕事は、一日で終わるようなものではなくて、長期的に計画を立てて、作りあげるものだ。自分はその計画が甘くて、いつも期限を超過している。

誰かに「今日はこの仕事をしなさい」と言われるようなものではないんだ。自分で今日何をすべきか考えて、行動して、その結果一日の仕事が全部無駄になったりする。

大学の研究室に近くて、自分が今進んでいる方向にいつも確信が持てなくて、こっちでいいのだろうかと迷いながら、歩いている。

CADの画面を見ながら、膨大な数の線を引いて、その大半は無駄になる。全部全部、ごみくずになっていく。採用されなかった案で、画面がうめつくされていく。

定時を過ぎて残業をしていて、一本も線を引けなくなる。この線はまた無駄になる。一つ線を修正したら、三面図を全部修正して、加工図も修正して、その部品が含まれる全部の組立図を修正して、、。CADの画面を見るのが嫌になる。

自分は能力が無いと思う。
同期は自分より学歴が高いし、コミュニケーション能力がある。いつか自分の能力のなさにみんなが気づいて、自分を排除するだろうと思っている。そのうちこの部署を追い出されて、製造部に配属されるだろう。

学生の頃、絵を描けなくて、いつも時間切れになるのを待っていた。放課後残って、白紙の画用紙をじっと見つめながら、時間が過ぎて、先生が「もういい」と言ってくれるのを待っていた。あの時の気持ちと似ている。

今の自分は社内ニート同然で、学生の頃みたいに時間切れになったら全て終わるということもない。ずっと仕事は続く。出来なければ出来るまでやらなければならない。こうやって人は鬱になるのだろうなあ。

ひらめきメモ ‏@shh7 10月20日
9割のクオリティを目指して1,2個の仕事しかしない人が、6,7割のクオリティで仕事をさばく人の事をぶつくさ言っている間に、経験の量が質に変化していつの間にか後者のクオリティが前者のクオリティを凌駕するのはまさに「時間の問題」。未熟なときに完璧を目指すのはもときに時間の無駄だったり

ツイッターを見ていて、まさに自分は9割のクオリティを目指すタイプだと思った。少し仕事のハードルを下げよう。部品製造の外注だって、試験だって、自分は始めてやることだし、最初は失敗するだろう。失敗するのが当たり前なんだと思えるようになろう。

眠い。

言葉を吐き出す手段としてのラップ

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ハートネットTVに取り上げられたりと、注目を集めている自閉症ラッパー(この呼び方が良いのかわからない)のゴメス君。

動画の半分は即興で言葉を紡ぎだすフリースタイル。自分の言葉で、思っていることを即興で話す手段としてのラップ。かっこいい!

俺に必要だったものなんて全部、すべて、生まれた時からないから。人とすべてが違いすぎた。

あまりにも人と違う人生だったから、彼の言葉が突き刺さる。「友達がいない」とか「話す相手がいなくて一人でしゃべってた」とか、普通の人の前で、普通のふりをしている人間が突然言ったら引かれそうなこと。普通の会話の中では表現しにくいことがたくさんある。

本人にとっては、真面目で、深刻なことでも、そのときの空気によって話しにくいことってたくさんある。だから、僕もこうしてツイッターやブログに自分の気持ちを一方的に吐き出してる。そういう、自己表現の手段として、ラップを選んだ。それが彼の特別なところだと思う。

自分は18年間、人と話せなかった。だから会話をするとき、話しながら考えることができなくて、声が小さくなる。ずっとラジオを聴いているような人生だったから、自分が発話者になったとき、なにも言えない。

会話は相手の話を聞いて、返すという繰り返しだけど、自分は受け取るのに精一杯で、「そうですね」と返すのがやっとだ。頭の回転を良くして、瞬発力をつけるために、一人でラップをしたり、ラジオを始めようかと思っている。

会話の自由度を上げたい

会話が、全然続かない。そして、まったく楽しくない。

どうして、こんなに苦しくてつまらないのだろう? 話していて楽しいのは、家族とほんの一部の人だけだ。

自分の車で人を送るとき、iPhoneでいつも聞いているYMOをかけずに、ラジオにする。「車で音楽聴かないの?」と聞かれても、めんどくさいから「聴かない」と答える。ドライブの時にかける音楽は、何にすればいいんだろう。ダンスミュージック? JPOP? ノリの良い洋楽?

カラオケに行っても、自分で曲を選べない。「これなんか歌えるんじゃない?」と他人に選んでもらって、ようやく歌える。「しかもふ君、そんなの歌うんだー」と思われたくなくて、選べない。

ああ、そういえば絵を描くときもそうだった。模写はできるけど、自分で題材を選んで描くタイプの絵は描けなかった。

物静かな人間は、まじめで、人の悪口を言わなくて、頭がいい(少なくともベラベラ話す人よりは)と思われている。全然そんなことない。

ここさけのヒロインだって、性格そんなによくないし。そのことを批判するレビューをyahooで見かけて、「それはお前が勝手にしゃべらない子は可愛くて、清楚で、健気だと期待しただけだろうが!」とつっこみたくなった。

あるいは、自分が勝手に期待されてると思い込み過ぎてるのかもしれない。
真面目な自分を演じようとして、勝手に袋小路に入り込んでいるだけかもしれない。いつも自分の周りを、壁がぐるりと取り囲んでいるような閉塞感がある。でも、本当は壁なんてないのかもしれない。

本当の自分は、無知で不真面目で性格も悪い。人並みに変人だという自負もある。(隠しているけど、みんなそこそこ変人ですよね?) 

愛想笑いと「そうですね」を繰り返すだけで、自分のイメージは保たれるし、ものすごく嫌われることもない。自分の身はとても安全だけど、安全な場所にいる限りは、友達なんてできない気がする。

築き上げた壁と自分のイメージを、壊したい。「自分は無知で馬鹿で性格悪いです」と書かれた札をいつもおでこに貼っておいて、もう誰も自分に期待しなければいいのにと思っている。

なんでも知っているようなふりをして、人の言っていることを理解しているふりをして、常に完全であろうとすると、驚くほど話せる言葉が少なくなる。

駄目な人間になりたいわけじゃない。ただ、駄目な自分であっても認めてほしい。そして、本当に自分がくだらなくて、いい加減な人間であるかを知っている人の前でしか、まともに話すことが出来ない。