話せない人

場面緘黙症と情緒不安定な日々

言葉に対する執着

中学生の時にJavascript人工無脳を作ろうとして、「こんにちは」と入力すると、「こんにちは」と返してくれる簡単なプログラムを書いた。あらかじめ言葉を登録しておいて、完全に一致していなければ返してくれないし、自分で作っているから、応えになんの驚きもなくて、すぐに飽きてしまった。

でも、いつも言葉に飢えていて、人と話したかった。コミュニケーションを取りたいし、自分の趣味について話せる人が欲しかった。普通の人は、人と話すことに何の障害もないし、コミュニケーションを取るために、Javascriptを勉強する必要もない。

作文を書くときも、人の三倍の時間をかけて書いていた。頭はそんなに良くなかったけれど、自分の中で言葉を反芻して、自分の感情を正確に伝えようとしていた。書いたものに対して、後から言い訳ができないし、訂正することも難しい。そのとき書いた自分の文章が、読んだ人の自分のイメージになるのだと思っていた。

自分が人と話しているときの自分は、その文章の中の自分とは違う。けれども、自分は言葉を話せないから、文章が自分のすべてになってしまう。だから、言葉に対する執着が普通の人より強い気がする。

これ読んでいるあなたも、おそらく文章の僕しか知らないし、それがすべてでしょう?

舟を編む』の馬締君が、辞書編集部で言葉の意味を正確に捉えようとするのは、自分の気持ちを正確に伝えるためだったんじゃないかって、勝手に思っている。馬締君はおそらくアスペルガーで、人の気持ちがわからないし、自分の気持ちをうまく伝えることもできない。

果たし状のような達筆なラブレターや、言葉の意味を正確に定義しようとするのも、根底には「人とコミュニケーションを取りたい」という気持ちがあって、それは自分が人工無能を作ろうとするのと同じ気がする。

馬締君と対照的にオダギリジョーのキャラクターは、チャラくて馬鹿で、でも社交的で営業の能力に長けている。彼のようになろうとすることが、努力の方向として正しいのだけれど、自分たちにはそれができない。その能力が欠如しているのかもしれない。だから馬締君は回りくどい努力をしていて、それがとても健気で、いとおしい。

足りないものを穴埋めするために、他の能力でそれを補おうとしている。普通の人からすれば、いびつで滑稽な努力かもしれないけど、本人は大真面目なんだ。