話せない人

場面緘黙症と情緒不安定な日々

汝ら己を愛するが如く

ツイッター緘黙クラスタのつぶやきを見ていると「死にたい」とか「消えたい」というような自己否定的な言葉が多い。また自分は、人を愛したり、なにかしてあげようとしても、ぎこちなくなってしまってうまくいかない。この自己肯定感の少なさと、人を愛することのできなさには、なにか関係があるんじゃないかなあと、最近考えている。

「愛するということ」を考えるとき「汝ら己を愛するが如く汝の隣人を愛せよ」という言葉を思い出す。これは聖書の引用らしく、太宰治が39歳のときに書いた『わが半生を語る』の中で読んだ言葉だった。その年に太宰は入水自殺してしまうのだけど、死ぬ前にちらっと次のようなことを書いている。

やはり己も愛さなければいけない。己を嫌って、あるいは己を虐たげて人を愛するのでは、自殺よりほかはないのが当然だということを、かすかに気がついてきました

これを読んだのが高校生のときで、その頃は今よりずっと憂鬱で「自分は屑だ、死んだほうがいい」と思いながら過ごしていた。やはり自分も、汝ら己を愛するがごとく~の考えを理想としつつも「でも、どうやって?」と悩んでいた。愛する方法がわからなかった。

また最近、地下室の手記安岡治子の解説を読んで、ドストエフスキーも同じようなことを考えていたことがわかった。

キリストの教えに従って己を愛するように人を愛することは不可能だ。この地上では個の法則に縛られ、《我》に阻まれるからだ。キリストのみがそれをなし得たのだ

自分と同じように他人を愛するなんて無理だよね。やっぱり自分が一番大事だし。この「自分が一番大事」と思いながらも自分を愛せない、自己肯定感が少ないという一見矛盾するような状態がいつまでも続いていた。これに対して心理学者のエーリッヒ・フロムは『愛するということ』で、こんな風に書いていた。

利己主義と自己愛とは、同じどころか、まったく正反対である。利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。

つまり、自分が今まで考えていた「好かれたい」とか「愛されたい」という気持ちは、利己主義であって、自己愛ではないということなのかもしれない。また、聖書の問題についても次のように言っている。

「汝のごとく汝の隣人を愛せ」という考え方の裏にあるのは、自分自身の個性を尊重し、自分自身を愛し、理解することは、他人を尊重し、愛し、理解することとは切り離せない(中略)もし他人しか愛せないとしたら、その人はまったく愛することができないのである。

これを読んで、自分が他人を愛せないのは、自分を愛することができなかったからなのだと妙に納得してしまった。

また、本を読んでいると、コミュニケーション能力があって明るくてどんなことにも前向きな人間が絶対的正義ではないということがわかってきた。
思想家の吉本隆明は『ひきこもれ』の中で「孤独癖がある」「世間並みの常識がない」「人並みに挨拶ができない」と若い頃にさんざん言われ悩んだということを書いていた。それでも、ひとりでこもって過ごす時間は価値を生むから必要と言っている。
自分の性格を理解したうえで、その個性を尊重することが大事なのだと思う。

自分自身を理解すると、自分の暗い性格や緘黙という情緒障害も生まれ持ったものだししょうがないかと思えるようになった。あまり善悪で考える必要はないかなと。
そうして自己肯定感が持てると、不思議と「他人も愛せるかもしれない」という予感がした。そんな気がしただけと言ってしまえばそれまでだけど、自分で自分を愛せると、人に好かれたり、愛されたりすることで肯定感を得る必要がなくなって、結果的に依存しなくてすむのかもしれない。

予感がしただけで、今までにない幸せな気持ちになれたので、本当にできたらすごいだろうなあ。自立したい。