話せない人

場面緘黙症と情緒不安定な日々

マイノリティとどのように接するか

自分はかつて場面緘黙症という情緒障害を抱えていて、ある種のマイノリティとして扱われてきました。ある場面、場所、人の前では一言も話すことができませんでした。他人からすれば、なぜそうなるのかさっぱり分からないでしょうし、自分もいまだにそれを適切に表現する言葉を知りません。道端に転がる石ころのように、他人から理解されないし、自分から自分のことを話すこともできませんでした。

場面緘黙症は自分から発信することができないために、このような不理解の構造の中に囚われ、そこから抜け出せなくなっています。そのため、当事者が自分の力で解決するのがとても難しいのです。そんな自分たちが、他人から支援を受けるためには、どうにかして場面緘黙症」という「言葉」を知ってもらうしかないのでした。その言葉を頼りにWikipediaでも、本でも、ツイッターでも、なんでもいいから調べて、知ってもらいたい。

場面緘黙症の発症率は0.2~0.5%程と言われています。けして少なくありません。にもかかわらず、自分が緘黙だったときに、まわりにこの言葉を知っている大人はいませんでした。LGBTの言葉を使えば「沈黙は死」。声をあげなければ、存在しないのと同じになってしまう。

ネット上では場面緘黙症を啓発しようという動きも出ていますが、この記事を含め、なにか小さな空隙の中で反響しているだけのような気さえします。中では大きな音に聞こえますが、外にでてみると全然響いていないような虚しさを感じてしまいます。

すべての障害を理解することはできない

場面緘黙症に限らず、マイノリティと呼ばれる人たちは、他人と異なるが故に「自分を理解して欲しい」という気持ちが強いと思います。もちろん全員がそうであるわけはないのですが、すべてのマイノリティがそのように、「正しい理解」と「適切な配慮」を求めるとどうなるでしょうか。僕は、それはちょっと重いんじゃないかなと思います。

4月1日から「障害者差別解消法」が施行されました。障害者に対する合理的配慮の不提供は、差別になるようです。働きやすくなるのは良いのですが、障害者が煙たがられるのではないかと少し心配でもあります。

そもそも「正しい理解」とは何でしょうか? 僕は自分が学生時代に体験した状態に対して、「場面緘黙症」というラベルを貼って理解しているつもりになっています。けれども、他の緘黙症の人と会ったこともありませんし、すべてが同じでないということも、ツイッターを見ながらぼんやりと分かってきました。

また、人は物ではないので、常に変化しています。極端に言ってしまえば、一秒前のあなたを完全に理解したとしても、その一秒後にはあなたは変わってしまっているので、その理解は古いだと思います。屁理屈かもしれませんが、完全に理解するのは不可能なのだと思います。

「理解できない」ということを理解する

二年前にFacebookで性別の選択肢が大きく増えました。

wired.jp

これはマイノリティの中で顕著なのですが、自分たちの感覚や状態を表す言葉が常に不足しているように思います。この「言葉の不足」が新しい言葉を生み出す原動力になっていて、一般には流通していない言葉がたくさん生まれています。

一方で、言葉だけが先にあり、身体感覚を伴わないということもよくあります。言葉に追いつくために、実体の方がそれに近づこうとしたりします。このように言語世界と実体の世界とは、互いに引き付け合う引力がはたらいているような気がします。

話がそれました、すみません。しかし、なぜこんな話をしているかというと、僕はこの引力が、時として状態を固定化してしまう不思議な魔力があるように感じるからです。

緘黙症だった頃の自分は、教室では一切話せず、置物同然でした。しかし、周りにクラスメイトがいない状態で、他のクラスの知らない子に話しかけられると、普通に話せていました。

緘黙症は極度の緊張や不安により話せなくなるということが言われていますが、その頃の自分は不安や緊張ではなく、状態を固定化する魔力によって話せなくなっていたのだと思います。「こうあるべき」という目に見えない期待のようなものに、自分をぴったりと合わせなければならない気がしていました。

これは「緘黙症の理解」にも当てはまると思います。緘黙であると理解されると、緘黙状態から抜け出せなくなるのではないか、という恐怖感があるのです。他人に注目されたくないという気持ちもありましたし、精神病患者として扱われ、なにかおおごとになってしまうという思いもあり「他人に知られたくない」という強い抵抗感がありました。これが緘黙症の治療をより難しくし、認知度が上がらない原因とも考えられます。

「さっきは知ってほしいといっていたのに矛盾するじゃないか」と言われれば、ぐうの音も出ません。実際、矛盾しているのです。我ながらめんどくさい病気にかかっていると思います。『行人』の一郎兄さん並に、治療困難だと思います。

僕は、放っておくと勝手に強固になり身体の自由を奪うこれを「檻」とか「殻」という風に呼んでいるのですが、緘黙症でなくなった今も、この檻が自分の周りに建設されていくような感覚があります。自分は職場で障害名を公表していないのですが、それは名前を出してしまうと、檻がより強固になってしまう気がするからです。

「君は元緘黙症なんだね。これからは大きな声で話せ!なんて言わないよ」「君は障害があるから、この仕事はしなくていいよ」なんて言われたくないんです。自分は人にしっかり聞こえる声で話したいし、やりたい仕事もたくさんある。変わりたいし、成長したい。他人が勝手に思っている「正しい理解」に縛られたくないんです。

求められる配慮の形は、人により様々です。障害名で一括りにした配慮というのはありえないと思います。障害名に囚われずに、その人と話しながら決めていくのが「合理的配慮」なのだと思います。これは何十冊も本を読む必要もなく、お金をたくさん費やす必要もありません。理解しようとすることは大事ですが、同時に、完全には理解できないのだということも知っていて欲しい。そういう態度で接してくれた嬉しいです。